スサノオの足跡⑫   八岐大蛇再考(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡⑫   八岐大蛇再考

斎木雲州著「出雲と蘇我王国(大元出版)」を読んでいて気がついたことがあります。

この本の巻末に載せられている歴代出雲主王の系譜を見ますと、初代が菅之八耳、二代目が八島士之身、三代目が兄八島士之身、・・・六代目が八束水臣津野命、八代目が八千矛、等々、「八」という文字がついている王が非常に多く、それも古い時代の王ほど八という字がついている傾向が見られます。

このことから考えられるのは、八という数が出雲族の聖数であり、この文字を名前に使っているものは王であることを表しているのではないか?ということです。

もし、記紀の編纂者がこのことを知っていて「八岐大蛇」という怪獣を記紀に登場させているのだとしたら、八岐大蛇は出雲国の王のことを暗喩しているものであり、スサノオが出雲王を倒して出雲国を乗っ取ったことを意味している、ということにならないでしょうか?

出雲の伝承では徐福がスサノオであるということになっており、実際に徐福は出雲に渡来した際に、上記の八千矛王(大国主)と事代主(副王)を殺害した、と伝えられています。

・・・とすれば、スサノオの八岐大蛇退治は、実は徐福が出雲王と副王を殺した史実を、外国の龍退治の伝承をもとに、あたかも大英雄譚のように正邪を入れ替えて書き記したもの、とも考えられるのです。

現代でも同様ですが、歴史は常に勝者によって改ざんされます。それもこの、スサノオの大蛇退治のように胸のすくような英雄譚になっている部分こそが最も怪しい。現代でも、平和の使者のような顔をしながら裏で武器弾薬を売って儲けている国がいますが、このあたりの「勝者のやり方」は昔も今も変わらないようです。

大元出版の本に基づいて徐福の行跡をもう少し追跡してみますと、徐福は最初、平和裏に礼儀正しく出雲国にやってきて様々な技術や文化を教えたため、出雲王八千矛に認められ、八千矛王の娘・高照姫と結婚し、息子・五十猛命を授かります。これが記紀に描かれたスサノオと櫛稲田姫との結婚でしょう。八千矛王は記紀では手長椎という名前に変えられていますが、徐福はこともあろうにこの八千矛王を殺してしまうのです。つまり、彼は義理の父親を殺したわけです。

しかしながら、徐福はそれで出雲王国を乗っ取ったわけではなく、逆に悪事がばれて出雲の遺臣たちに追われ、いったん中国に逃げ帰ったようです。その後、徐福は九州の吉野ヶ里に上陸、これが物部氏の興りであると斎木雲州氏は述べています。

そして極めて興味深いことに、斎木氏は徐福=スサノオ説はじめ、その子孫たちや周辺にいた古代の豪族たちの正体を次々と説明して行きます。それが正しい史実であるのか? また、どこまでが出雲の伝承であり、どこからが斎木氏の研究による成果なのか、文脈からははっきりしません。しかしながら、斎木氏の説明には歴史的な齟齬がなく、また斎木氏には記紀の編者のようにウソを書かねばならないような理由もなく、むしろ逆に「真実の歴史を書き残したい」という斎木氏の誠実な一念で書かれているようですので、その記述の大半は信用に値するものではないかと私は考えています。

以下、徐福(スサノオ)に関連する斎木氏の記述だけを取り出してみます。
①徐福による出雲の二王殺害後、東出雲人はヤマトの葛城に行き、葛城王朝の祖となった。
②スサノオの子・五十猛命は丹波国に行き、海部氏の祖となった。
(海部氏は現在の京都府宮津市にある籠神社の宮司)。
③五十猛命の息子・村雲命はヤマトへ行き、事代主の子孫の登美家と協力して磯城王朝を作った。
④徐福には五十猛命のほかにもう一人男子があり、この男子は長じて熊野に上陸した。
⑤出雲王家の向家は九州から物部軍に攻められ出雲の八雲村熊野に移り、先祖代々祭祀してきたクナト大神と事代主を祀った。これが熊野大社の興りである。
⑥天村雲命の子・神八井耳命は藤原氏の祖となった。(藤原氏は渡来人のように認識されがちだが、れっきとした出雲族の子孫である)。
⑦出雲族はヤマトの三輪山を祭祀していたが、そこに巫女だった登美家のヤマト姫は物部氏に攻められて丹後国の真名井神社(現在の籠神社の元宮)に逃げ、その後志摩国に逃れた。
(この軌跡は元伊勢の変遷と一致する)。
⑧磯城王朝は物部軍に攻められ、山城国亀岡に逃れる。このときヤマトの磯城王朝は滅びた。
(この戦いは記紀では神武軍対ナガスネヒコ軍の戦いとして人物をすり替えている)。

・・・等々、「出雲と蘇我王国」という本にはほかにも驚きの記述が満載なのですが、本稿のテーマが「スサノオの足跡」ですので、スサノオに直接関係のない事項については重要であっても今回は割愛しました。

この斎木氏の記述は宇佐公康氏著の「古伝による古代史」の内容とぴたりと整合します。この本もまた驚愕の記述満載の本なのですが、両方とも記紀の記述とは大きくかけ離れており、この二冊と記紀を読み比べてみますと、記紀の編纂者が、事実を書きたくても書けなかった、時代環境の制約というものにがんじがらめに縛られていて、それゆえに多くの場面で史実を捻じ曲げて書いており、それも相当に強引な方法で、ひとつのウソを書いてしまったがために、それを正当化するためにさらに多くのウソを書き連ねなければならなかったのであろうということが理解できます。

さて、それでは本稿の目的である、「スサノオはどのような足跡を日本に残したのか?」という命題に戻りましょう。

あくまでも斎木氏の説の通り、スサノオ=徐福と仮定した場合ですが、徐福自身は吉野ヶ里に小さな王国を築き、その後日本各地を訪れ、富士山山麓にも足を延ばしているようです。このあたりは秦の始皇帝の命に忠実に動いていた様子が見て取れます。

もう一つ重要なのが、徐福の血を引いた五十猛命はヤマトの磯城王朝の祖となっており、その五十猛命の異母弟(姓名不詳・徐福の次男)は熊野大社の祖となっている点です。

さらに徐福に王を殺された東出雲王国の人々はやはりヤマトに入り、葛城王朝の祖となっています。

歴史上、その成立過程が霧に包まれていた磯城王朝、熊野王朝、葛城王朝という、初期の天皇家と密接にかかわっている王朝成立のきっかけが徐福=スサノオによるものだったとしたら、スサノオこそ日本人の最も有力な祖先と言えるかもしれません。

最近、再発掘の始まった吉野ヶ里遺跡から、徐福渡来の決定的証拠が出てくることを願ってやみません。

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