スサノオの足跡⑩ 葛城襲津彦という人物について(佐藤達矢 稿)

佐藤達矢稿

スサノオの足跡⑩ 葛城襲津彦という人物について

前回、八岐大蛇と九頭龍は同一のもので、仏教守護神の八大龍王ともルーツを同じくするものではないかという仮説を提唱いたしました。
今回はこのことを、日本への仏教伝来という史実の探求に絡めて考察してみたいと思います。

鳥越憲三郎氏の提唱した説に「葛城王朝説」というものがあります。
これは、ヤマト王権以前の畿内に葛城王朝というものが存在していたのではないかという説で、神武天皇以降の欠史八代の天皇は奈良県葛城地方にあった王朝の大王であり、ヤマト王権とは血統を異にする、という仮説です。

私が気になるのは、「葛城」という名称には「葛(クズ)」という文字が入っているということです。クズ、すなわち九頭龍。葛城とは「九頭龍の守る城」、「仏教守護者の国」という意味が隠されているように思えるのです。

頭部が五~八ある複頭龍はインドで「ナーガ」と呼ばれ、お釈迦様の生誕地で神として崇められていたことから、いつしか仏教の守護神としての性格が付与されたということも前回書きました。
このナーガはまた、天孫族のトーテムとして金官伽耶国の王家の紋章として伝えられ、この国の初代金首露王の子供たちのうち七人が仏教徒として出家、修行したのちに六人までが日本へと旅立っています。
このうちの一人が畿内に来て葛城王朝の祖となっているとは考えられないでしょうか?

この葛城王朝、その実態はまだ謎のヴェールに包まれているのですが、ひとつだけ確実に言えることがあります。それは、この王朝の一族である「葛城襲津彦」という人物が間違いなく実在した人物だということです。
そして、この葛城熊津彦という人物がまた、古代史史上きわめて重要な人物なのです。

葛城襲津彦は神功皇后の三韓征伐の際のヤマト国側の軍事長官でした。つまり、当時のヤマト国が新羅、百済、高句麗という当時の朝鮮半島にあった三国をことごとく服従させ、以後、毎年倭国に朝貢させたという、信じられないような大勝利の立役者なのです。

三韓征伐という史実がどこまで真実なのかはわかりません。が、少なくとも新羅と戦って勝利し、百済や高句麗からも朝貢させたというところまでは真実であるようです。

これは、当時のヤマト王権がまだ、西日本のすべてを統治できてもいない状況だったことを考えれば驚愕の出来事です。神功皇后はこの勝利によって日本史上前代未聞の広大な領土を獲得した大王となるのですが、その覇業の実務を行った英雄は葛城襲津彦でした。

では、この人物はどういう人物だったのか?ということを考えて行きましょう。

記紀においては、宇佐国の領主のことをウサツヒコ、阿蘇国の領主のことをアソツヒコと呼んでいます。この呼び方のパターンからすると、襲津彦は「襲の国の領主」ということになります。
「襲の国」とは熊襲国の東半分、現在の宮崎県南部から鹿児島県東部にかけて存在した国で、後世に「隼人」と呼ばれたのもこの国だと思われます。

この地域は神武天皇の誕生地として有力視されており、葛城襲津彦は神武天皇と血縁のある人物だったのかもしれません。葛城王朝の始祖もおそらく神武天皇で、記紀によって神武王朝の舞台が葛城地方から現在の橿原市に置き換えられているとしたら、鳥越氏の仮説には筋が通ります。
現在の橿原神宮は明治時代の創建で、神武天皇の王朝跡ではありません。

そして、葛城王朝のほかに磯城王朝という王朝が現在の橿原市付近にあり、神武東征の戦いとはこの葛城王朝と磯城王朝の戦いではなかったか?と私には思えるのです。

記紀の記述では、神武東征軍は「久米歌」という歌を歌っていたと書かれています。
「久米」は「熊」の転訛であり、神武軍は熊襲国の歌を歌っていたわけです。
つまり、神武軍の主力は熊襲国の兵だったわけです。

ここで「葛城襲津彦」という名前にもう一度注目してみてください。
襲津彦は熊襲国の東半分の王であり、熊襲人での血を引いた人物であったことでしょう。

姓が葛城であるということは、葛城王朝の王族の一人ということであり、神武天皇が入植したのは葛城の地であり、東征の数百年後に襲津彦が誕生していたとしたら、すべてつじつまが合います。襲津彦は、葛城王朝の王と熊襲国の襲国の王女が婚姻して生まれた王子であり、その血筋ゆえに葛城王朝と熊襲王朝の両王朝の兵を束ねることができ、新羅国と戦っても勝てるほどの兵力を有していたと考えられるのです。

記紀の記述では、神功皇后の三韓征伐の直前、熊襲国討伐を主張していた仲哀天皇が変死、その妻であった神功皇后は戦略を大転換して新羅攻めを決行、見事勝利して新羅を属国化することに成功します。

この陰に葛城襲津彦の存在があり、襲津彦を味方につけたものが天下を取れると判断した神功皇后と、熊襲国を先に滅ぼさないと半島征服などありえないとした仲哀天皇が決裂、神功側についた武内宿禰が仲哀天皇を暗殺して神功王権を確立させ、三韓征伐に導いた。
・・・というのが歴史上の真実ではなかったかと私は推測します。

なお、記紀の系図では武内宿禰は葛城襲津彦の父ということになっておりますが、これは怪しいと私は考えています。葛城王朝は武内宿禰の時代よりずっと古くから存在していました。

また、武内宿禰の「武」の文字は新羅を意味します。武内宿禰という名前全体では「新羅の軍事長官」という意味になり、この字義からしますと、竹内宿禰は新羅の軍事を掌握していた人物であったようです。この人物と組んだのであれば、神功皇后にとって新羅征伐はたいして難しくなかったとも考えられます。

ちなみに、神功皇后自身も母方が新羅国の出身で、天日矛の末裔とも言われています。
神功皇后と武内宿禰がきわめて親密だったのは、出身地を同じくしていたからとも考えられるのです。

いっぽう、このサイトの主宰者である堀哲也氏は、武内宿禰の出自は熊襲国ではないかという説を唱えておられます。これが事実だと、こんどは武内宿禰と葛城襲津彦が親族同士、ということになり、これも仲哀天皇変死事件に整合性を与える説で、説得力があります。
もしかしたら、武内宿禰は熊襲と新羅、両方の血を引いていたのかもしれません。

そして、私にとって非常に重要なのは、葛城一族の中からあの「蘇我氏」が出ていることです。

蘇我氏は記紀によって暴虐の独裁者のように描かれていますが、実態は真逆で、各世代の当主が仏教の普及に身命を捧げた敬虔な仏教徒だったようです。悪人として描かれたのは、記紀を編纂した時の責任者が蘇我氏を謀殺した張本人の家柄だったから・・・。

仏教の守護神・八大龍王が九頭龍となり、その神官が葛城氏となり、やがて蘇我氏へと変遷して行ったとしたら・・・。
そこには古代からの仏教伝来に尽くした人々の歴史がしっかりと刻まれています。

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