スサノオの足跡④ 伊西国はソシモリか?
高天原を追放されたスサノオは出雲国に赴き、そこで八岐大蛇退治という大仕事をやってのけるわけですが、実は、日本書紀にはこのときのスサノオの行き先について六つもの異伝が記述されています。
その中でも最も目を引くのが、「スサノオは新羅の曾尸茂梨(ソシモリ)に行ったが、その地にはいたくないと言って出雲国に行った」という記述のある異伝で、それまで高天原を天上世界のようにぼんやりと描き続けていた記紀の中で、ここだけがはっきりと、舞台が朝鮮半島であることを明示しているのです。
これは「高天原伽耶国説」を裏付ける1級の資料と言え、これが日本書紀のチェックミスなのか?あるいはさりげなく真実をほのめかしているのか?・・・興味深いところです。
さて、ではソシモリとはどこの場所を指しているのでしょうか?
ソシモリをソウルと解釈する説もありますが、さあ?・・・ソウルとソシモリという音韻が似ているでしょうか?
仮に現在のソウルだとしたら距離が遠すぎますし、現在の韓国のソウルという都市はこの時代にはまだなかったはずですから、この説は信じがたいと思われます。しかし、ソウルという言葉を直訳すると「京城」となるようですので、これを当てはめるとソシモリは「京城を護る人」⇒「軍事拠点のあった場所」と読み解けます。
調べてみるとほかにも5~6通りの仮説があるようですが、その中にもソシモリ=伊西国であるという説は見当たらないようで、ここで私はこの説を唱えてみようと思います。
その理由は、アマテラス族が大伽耶国にいたのなら、そこに挨拶に行くスサノオは比較的近いところにいなければならないからです。
また、挨拶に来たスサノオを警戒して籠城したということは、近いと言ってもそこそこの距離があり、軍備を整えるだけの時間がかかる土地、ということになります。
こういう条件を満たすのが大伽耶国とソシモリの位置関係です。
朝鮮半島の地図をグーグルの航空写真で見ますと、そのあたりの地形はほとんどが山岳地帯で、平地はごくわずかしかありません。山上で暮らすのは何かと不便なため、アマテラス族とスサノオ族はお互い、山を挟んだ盆地地帯に隣接して住んでいたのではないかと思われます。
ここでスサノオは「私はこの土地にはいたくない」と言って出雲へと向かうのですが、いたくない理由はなんだったのでしょうか?
日本書紀「黄泉の国」の条、一書に曰く(第11)によりますと、この少し前にイザナギは三貴神に対して「アマテラスは高天原を治めよ。ツクヨミは日と並んで天のことを治めよ。スサノオは青海原を治めよ。」と命じた、とあります。
これを見ますと、アマテラスとツクヨミは伽耶国の統治権を認められたのに対し、スサノオは統治すべき領土を与えられず、海岸の警備のみを命じられただけだった、とも解釈できます。
これは当時の軍事長官だったイザナギがスサノオ族を警戒しており、領土を持たせて力を蓄えさせたら危険だと考え、何も与えないでおこうとした、とも考えられます。そして、そのような不遇をかこったスサノオ族の中に徐々に不満が蓄積し、度重なる乱暴狼藉事件へと発展していったとも考えられるのです。
スサノオが伽耶国に長く居住せず、日本の出雲国にやってきた理由はそのあたりにあるのかもしれません。
・・・もうひとつ、ソシモリではないかと考えられる場所があります。
その場所は、伽耶山。
この山は別名「牛頭山」という名称でも呼ばれます。
スサノオの別名に「牛頭大王」というものがあり、字面だけで判断するとこれは「伽耶山の大王」とも読み取れます。
さらに、「牛」の韓国語読みは「ソ」、頭は「モリ」で、牛頭はソモリと読み、ソシモリはこのソモリが転訛したもの、とも解釈できるのです。
ただ、伽耶山は当時の大伽耶国の聖地であり、そのような場所に簡単に居住できるものではなかったでしょう。この場所にはスサノオ族が来るずっと以前から「正見母主」という女王が君臨し、イビカという北方遊牧民族と婚姻していました。
・・・あるいは、このイビカがスサノオとダブってくるのですが、しかしこれは少し年代がおかしくなります。イビカの息子が首露王であり、首露王の娘とアマテラスの息子が結婚するわけですから・・・。
すると、おそらく正解は、伽耶山の麓、伽耶山地域とでも言えるような土地にソシモリはあり、軍事的防衛拠点として城が築かれていた場所ではなかったか? と考えられ、やはり伊西国あたりがその場所ではなかったかと考えられるのです。
「防人」と書いてサキモリと呼び、邪馬台国の頃の軍事拠点や軍事長の名前を「ヒナモリ」と呼びました。「ソシモリ」という言葉にはこれらと同じ響きを感じるのです。
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